子どもに「言葉」で教えられないこと ― 大人と子どもの“学びの非対称”

龍成塾事務局

大人に教えるときと、子どもに教えるとき。同じ技でも、私は伝え方をまるきり変えます。長く指導していると、大人と子どもでは、学びの入り口がまるで違うと痛感するからです。

大人は、言葉から入りたがります。「なぜこの立ち方なのか」「どういう理屈で力が伝わるのか」。仕組みを理解してから身体を動かそうとします。ですから大人には、まず説明が効きます。理屈が腑に落ちると、稽古に身が入ります。

子どもは、逆です。理屈を長々と説いても、たいてい右から左に抜けていきます。けれど、こちらが黙って動いて見せると、いつのまにか同じ形をなぞっている。言葉より先に、身体が真似をするのです。子どもは、まねる天才だと思います。

ここに、教える側が見落としがちな落とし穴があります。言葉は、それだけでは身体に届きません。言葉は、身体の経験という土台の上に落ちて、はじめて意味を持ちます。突きを千回繰り返した子に「今のが極めだよ」と言えば、その一言はずしりと刺さります。けれど経験のない子に同じ言葉をかけても、宙に浮いて消えてしまう。順番が逆なのです。まず身体に経験を積ませる。言葉は、後から添える。

ですから子どもには、説明を減らし、一緒に動く時間を増やします。できた瞬間をすかさず捉えて、「今の、いいね」と短く返す。その一言が、積み上がった身体の経験と結びついて、はじめて「分かる」に変わります。

教えるとは、相手の学びの入り口を見極めることだと思います。大人には言葉の鍵を、子どもには身体の鍵を渡す。同じ道場の中で、私はいつも、二つのまるで違う扉の開け方を使い分けています。

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