AIの時代こそ、国語力を鍛えよう ― 空手の上達と同じ理由で
AIの進歩が速すぎて、去年の常識がもう通じません。この先の時代に、子供たちには何を身につけさせておけばいいのか。私の答えは国語力です。仕事でAIを使い、道場で空手を教えていて、行き着いた先が同じでした。
AIは、この数年で別のものになりました
私は仕事でAIを毎日使っています。文章を書かせ、資料を作らせ、プログラムを組ませる。数年前までは「面白い道具が出てきたな」という程度のものでした。ところが今は違います。こちらが目的を伝えると、AIが自分で手順を決め、途中で調べものをして、最後まで仕上げてきます。
一年前にできなかったことが、今年はできる。この分野を追いかけている人ほど、そう感じているはずです。
シンギュラリティという言葉
最近よく耳にする「シンギュラリティ(技術的特異点)」は、AIの能力が人間を超え、そこから先の社会がどう変わるかを人間には予測できなくなる時点のことを指します。研究者のレイ・カーツワイル氏は、これを2045年ごろと予測しました。
この言葉の定義は一つに定まっていません。AIが人間並みの汎用的な知能に届く時点を指す人もいれば、AIが自分で自分を改良し始める時点を指す人もいます。ですから「2045年に何かが起きる」と断定できる話ではありません。
ただ、大事なのは年号そのものではありません。2045年、いま10歳の塾生は29歳です。ちょうど仕事の中心にいる年齢になります。遠い未来の話ではなく、いま道場で突きを打っている子たちが働いている時代の話なのです。
AIを動かしているのは、言葉です
AIに仕事をさせるとき、こちらが渡せるものは言葉だけです。「いい感じにやっておいて」と頼めば、いい加減なものが返ってきます。何を、誰のために、どういう条件で、どこまでやるのか。それを言葉で組み立てられる人ほど、AIから引き出せるものが大きくなります。同じAIを使っても、使う人によって結果がまるで違うのは、この差です。
返ってきた答えを読む力も要ります。AIは間違えます。しかも、もっともらしい書き方で間違えます。そのまま信じて先に進む人は、その間違いに気づきません。何が書かれていて、何が書かれていないのか。どこが根拠のある話で、どこが推測なのか。これを見分けるのは、昔から国語で読解力と呼ばれてきたものそのものです。
もう一つ、使っていて気をつけているのは、やり取りを重ねるうちに、AIの答えが最初の目的から少しずつずれていくことです。会話が長くなると、直前の話題に引きずられて、そもそも何のためにこれをやっていたのかが抜け落ちた答えが返ってきます。ずれは一回ごとにはわずかなので、読み流していると気づきません。いま話がどこにいるのかを自分でつかんで、「本来の目的はこれです」と引き戻せるかどうか。これも読む力です。
入口も言葉、出口も言葉。AIが賢くなるほど、差がつくのは使う側の言葉の力になります。
空手も、同じところで差がつきます
一度、極端なことを考えてみてください。もし空手の技に、名前も説明も一切なかったらどうなるでしょうか。
上段回し蹴りも、下段払いも、「あれ」「あの動き」としか呼べません。稽古で直したい部分を指し示すこともできない。見よう見まねで覚えるしかなく、どこがどう違うのかを本人も指導者も特定できません。名前がつき、その名前と動作が結びついているから、私たちは技を扱えます。言葉と動作が結びつくたびに、理解は深くなっていきます。
そして、名前だけでは足りません。
突きを打つとき、体の中で何が起きているかは外から見えないからです。踏み込みで体重がどう移動しているか。下半身の力がどのタイミングで解放されているか。師匠の突きを横で見ていても、表面の動きは見えても、内側の構造は見えません。熟練者の技ほど、見た目だけでは分からないことのほうが多い。外から見えているのは結果であって、そこに至る仕組みは見えないのです。
見えないものを理解するには、言葉にして考えるしかありません。
龍成塾ではこの見えない構造を「動素」と呼び、溜め・軸・ベクトル・壁・脱力・インパクトの六つに分けています。一つの技を、さらに細かい言葉に分けているわけです。どこに力を溜め、どの方向に出し、どこで受け止めるのか。分けて名前をつけなければ、稽古のときに意識を向けられません。
「腰を回せ」としか言えない段階と、「床を蹴った力を腰で方向転換する」「下半身のブレーキで上半身を走らせる」と何通りにも言える段階では、同じ正拳突きでも見えている解像度がまるで違います。言い換えが何通りもできるのは、一つの動きを複数の角度から捉えられている証拠です。今日は力の方向を意識して突く、明日は力の伝わり方を意識して突く。言葉の数だけ、同じ稽古が別の稽古になります。
技術を伸ばすというのは、自分の技を言葉で細かく分けて、自分自身に説明し直していく作業でもあります。人に教わる前に、まず自分で自分に説明できるようになる。これができる子は、稽古の一回一回から得るものが変わってきます。
言葉が豊かだから上達するのか、上達したから言葉が増えるのか。おそらく両方が同時に起きています。身体で感じたことを言葉にする。その言葉を手がかりに、また身体で試す。新しい感覚が生まれる。それをまた別の言葉にする。この往復の中で、技は深くなります。
指導する側に立つと、これはもっとはっきりします。目の前の子の突きが「何かおかしい」とき、腰が回っていないのか、踏み込みが浅いのか、肩に力が入っているのか。それを言葉にできなければ、直してあげられません。自分の体の中で起きている仕組みを言葉で解いて説明できなければ、その技は次の世代に渡らずに終わります。見せるだけでは伝わらないのです。
子供のうちは、稽古が先です
ここには順番があります。
六歳の子に「床を蹴った力を腰で方向転換する」と説明しても、まず届きません。言葉は、身体の経験の上に落ちて初めて意味を持つからです。百回突いた子と千回突いた子とでは、同じ「腰を入れろ」という一言から受け取れるものが違います。受け止める身体ができていなければ、どれほど正確な言葉も届きません。
ですから子供の稽古では、見せて、一緒に動いて、繰り返す。できた瞬間に「それ」と指し示す。これが先です。理屈の説明を延々とするのは、教える側の自己満足になりかねません。
私自身、子供のころは理屈など何もありませんでした。テレビで仮面ライダーのキックやアントニオ猪木の試合を見て、ただ興奮していただけです。あのころの私に言語化などできるはずもありません。
では、言葉はいつ要るのか。あとで要ります。中学生、高校生、大人になって、自分の技を自分で深めていく段階で必ず要ります。そのときに使える言葉を、いまのうちに増やしておいてほしいのです。
だから、本を読んでほしい
言葉を増やす方法は、昔から一つです。読むこと。それも、たくさん読むことです。
好きなことから読む
空手でも、昆虫でも、電車でも、ゲームでも、スポーツ選手の本でも構いません。興味のないものを我慢して読んでも、言葉は身につきません。面白くて先が知りたいから読む。この状態がいちばん言葉が増えます。
量を読む
一日15分でも、一年続ければ90時間を超えます。稽古と同じで、読んだ量はそのまま力になります。名作を一冊丁寧に読むことより、まずは冊数です。
漫画や図鑑から入ってもいい。ただし活字の本も混ぜる
漫画は入口として優秀です。ただ、漫画は絵が場面を説明してくれるので、言葉だけで情景を思い浮かべる訓練にはなりません。両方を行き来してください。
読んだら、誰かに一言話す
「どんな話だった?」と聞かれて答える。これがいちばんの訓練です。読んだ内容を自分の言葉に置き換える作業だからです。道場からの帰りの車の中でもできます。
分からない言葉を飛ばさない
一つ調べるたびに、使える言葉が一つ増えます。
保護者の方にお願いしたいのは、二つだけです。家の中に本がある状態を作ること。そして、子供が話した感想を評価しないこと。「それは違う」「もっとちゃんと読みなさい」と言われた子は、次から話さなくなります。
道場でもできることがあります。稽古のあとに「今日はどこを直した?」と聞いてみてください。最初は「なんとなく」しか返ってきません。それが「足の裏の使い方」「引き手」と変わってきたら、その子は伸びていきます。
道場で体を鍛え、家で言葉を鍛える
AIがこの先どれだけ進んでも、何をさせるかを決めるのは人間です。返ってきた答えが正しいかどうかを判断するのも人間です。空手の技を深めていくのも、最後は自分の言葉です。
いま子供たちに一つだけ勧めるとしたら、私は迷わず読書を挙げます。計算も英語も大事ですが、どちらも問題文を読み、説明を読んで理解するところから始まります。日本語を読む力が伸びれば、ほかの教科も一緒に伸びます。
道場で体を鍛え、家で言葉を鍛える。この二つがそろっていれば、2045年に何が起きていても、子供たちは自分の頭で考えて進んでいけると思っています。
