「礼に始まり礼に終わる」の本当の意味
「礼に始まり礼に終わる」。武道を語るとき、決まり文句のように使われる言葉です。けれど決まり文句であるがゆえに、その中身が問われることはあまりありません。
私は、礼を単なる道徳――「礼儀正しくあるべきだ」という心がけ――とは考えていません。礼は、道場が道場として成り立つための「仕組み」だと考えています。なぜ道徳では足りないのか。礼を心がけの問題にしてしまうと、それは個人の意志に頼ることになります。けれど、道場で礼が最も必要なのは、打たれて頭に血が上ったとき、負けて悔しいときです。感情が激しく揺れるその瞬間にこそ、「べき論」は最も脆くなります。
考えてみてください。空手は人を打つ技術です。先輩が後輩を打ち、後輩も先輩を打つ。互いに痛みを与え合う関係の中で、それでも人間関係を壊さずに稽古を続けなければなりません。これは、感情のままに任せていては、とても成り立ちません。
そこで礼が働きます。相手を打つ前に礼をし、打った後に礼をする。この形式が、打撃という激しい行為を「互いの成長のための稽古」という枠の中に収めるのです。礼がなければ、打ち合いはただの暴力になりかねません。礼があるからこそ、同じ打撃が稽古になる。そして礼は、指導者にも等しく求められます。道場にいる全員が同じ礼の中にいるからこそ、力の差があっても場が壊れないのです。
よく、「腹が立っているのに礼をするのは嘘ではないか」と問われます。私はそうは思いません。むしろ、心がどうであれ形を保てること自体に意味があります。「わかってから形にする」のではなく、「形にすることでわかる」。礼の形を繰り返すうちに、心が後から整っていく。ある日、相手に自然に頭を下げている自分に気づく。その頭の下げ方の中に、言葉にならない何かが宿っています。お子さんが道場で繰り返す一つひとつの礼は、こうして時間をかけて、その子の身体に染み込んでいきます。
